平安後期の華麗な大鎧を原点に、時代背景に応じて変化してきた日本甲冑の16領+番外2領(甲冑は「領」で数えます)のデジタルイラストと説明のページです。
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平安時代後期~鎌倉時代につくられた、国風文化を背景とする華麗な古式鎧です。
大鎧は、騎馬/弓矢戦を展開した上級武士が主に着用した鎧で、横に広がった兜の「しころ」や大きな「吹き返し」、盾のように大きい「大袖」、騎馬に適するよう四分割された草摺などが特徴です。
上級武士の騎馬/弓矢戦の一方で、刀や槍などで近接戦を行っていた中級武士の鎧です。
動きやすい樽型の胴や足さばきに配慮して多分割された草摺等、近接戦に適した工夫がなされていました。
戦さが激しさを増した室町時代末期になると、古式の意匠と生産性の高さをあわせ持った「切付小札」での二枚胴の甲冑が作られ始めました。
武具機能が充実したこれら甲冑は武具の機能を具え足りた「具足」と呼ばれました。
戦国時代、甲冑は武具機能に特化した「戦う道具」へ変化するとともに伝統や様式にとらわれない個性化が進みました。こうした甲冑は「当世具足」と呼ばれました。
また、敵味方を見分ける旗指物(はたさしもの)が常用化し、武士を認知する兜の立物(たてもの)が多様化しました。
以下は、よく知られている戦国武将の特徴ある当世具足です。
明智光秀の重臣であった明智光春の所用と伝えられる具足です。
兜は前面が二重構造、胴は一枚の厚い鉄板を打ち出した和製南蛮胴です。
東北の雄 伊達政宗の五枚胴具足です。
強固な鉄の胴に、無用な大袖を小さな鉄板の小鰭(こびれ)に置き換えたこの甲冑は「仙台具足」と呼ばれています。
徳川家康が関ヶ原の戦いで着用したとされる実戦甲冑で、特徴的な大黒天頭巾の兜に取り付けられたしころは二重構造となっています。
家康着用の甲冑には前立は装着されていませんが、歯朶(しだ)の前立を装着した奉納鎧の模作が、家康を顕彰する御写形として徳川家代々でつくられてきました。
「井伊の赤備え」で知られる彦根藩の初代藩主 井伊直政が関ヶ原合戦で使用したと伝えられる甲冑です。
兜は鉄板を打ち出した頭成兜、胴は簡易二枚胴、籠手は小さな袖が一体化した「毘沙門籠手」の実戦甲冑です。
井伊直政の「御召替」具足です。
大天衝脇立を備えたこの甲冑は代々の藩主の甲冑の基本形として継承され、藩主以外がこの大天衝脇立を装着することは許されませんでした。
戦国の記憶が残る江戸初期の徳川家第三代将軍 徳川家光の具足です。
簡素で実用に徹した当世具足で、胴に残された火縄銃の試し撃ちの痕から緊張感が伝わります。
この甲冑は、当世具足が行き着いた究極の機能美の甲冑といえます。
彦根藩八代藩主 井伊直定の甲冑です。
戦さが過去となった江戸中期には、装飾性の高い具足がつくられるようになります。
彦根藩十五代藩主であり、江戸幕府大老でもあった井伊直弼の甲冑です。
華美な装飾に陥ることを避け、初代藩主の甲冑へ回帰しようとする意識の伝わる赤備えです。
最後の将軍であった徳川家十五代将軍 徳川慶喜が一橋家を相続したときにつくられた古式の胴丸具足です。
後年、フランス式軍隊に倣おうとした慶喜にとって、こうした甲冑の意義は希薄だったかもしれません。
近世、武具として新たに作られことのない甲冑は、現代流の創作甲冑や五月人形へ変化します。
現大阪城が所蔵されている甲冑です。
徳川家康の側近であった天海僧正の甲冑と言われていますが、近世につくられた観賞用甲冑と推測されます。
ちなみに、この甲冑の前立はNKH大河ドラマ「麒麟がくる」の「麒麟」です。
討ちたる敵の骸
明日の我が姿
戦さは虚し
西欧甲冑が鉄板等で全身を覆う構造である一方、日本甲冑は、板部材等をつないだ構造であることが特徴です。
この違いは、各々の風土に裏付けられたもので、低温で乾燥した気候の西欧では密閉構造で身を守り、高温多湿の日本では、暑さと湿気を凌ぐ通風に重きを置いた甲冑がつくられました。