桜や紅葉の観光スポットの神社にお出かけしたとき、ついでだからと手をあわせてパンパン!は普通。
お賽銭はちょっとで、願いごとは山盛り!も常識。
どんなご利益があるかは気にしても、お祀りしてあるのがどんな神さまなのかはもちろん、神社の由緒や伝承などクソくらえ!!!はあたりまえ
でも、ヒマつぶしのつもりで、神社の伝承をなどをちょっと掘り下げてみると、大人の童話のようなお話に出会えます。
そうしたお話の亀岡の代表と言えば、丹(あか)い波たつ丹波湖を、神さまが丹波国=亀岡盆地に変えられたという「丹波開拓」の伝承ですが、この伝承には、内容の異なるふたつのお話しがあります。
そこで、これらふたつのお話をひらいてみます。
ひとつ目は、出雲の神さまの大国主命(おおくにぬしのみこと)による丹波開拓のお話しです。
全国各地の国づくりを進めてこられた大国主命が、ある日、丹波湖のほとりに来られ、丹い波たつ湖面を眺めながら、この湖の水が無くなれば実り豊かな国ができるだろうと考えられました。
そこで、八柱(8人)の神さまに声をかけ、丹波湖の南にある黒柄岳の頂に集まっていただいて、どのような方法がよいかを相談された結果、浮田峡(現保津峡)を切り拓き、湖の水を山背国(やましろのくに 現京都市)へ流すのがいいということになりました。
そして、黒柄岳近くにある明神ヶ岳のふともで樫の木の舟をつくり、八柱の神々とともにこの舟に乗って浮田峡へ向かわれ、神々が力をあわせて浮田峡を拓かれた結果、湖の水が無くなり、豊かな丹波国ができたとされています。
こうした大国主命による丹波の国づくりに感謝した人々は、美しい真名井の水の湧く現亀岡市千歳町に出雲大神宮に大国主命をお祀りし、その妻神で稲作の神さまの三穂津姫命(みほつひめのみこと)をお祀りして丹波国の五穀豊穣を願うとともに、三穂津(ほつ)姫命の名から「ほつ」の文字をもらって、それまで浮田峡と呼ばれていた渓谷を、保津(ほづ)峡と呼ぶことにしました。
一方、「樫の舟」がつくられた現大阪府高槻市樫田の地には樫船神社をつくって大国主命をお祀りし、浮田峡を拓かれたときに使われた「鍬が山」となったとされる現亀岡市上矢田町には鍬山神社を置いて、ここにも、大国主命をお祀りしました。
なお、例年の秋、鍬山神社の神さまに神輿に乗って町なかへお越しいただき、町衆が11基の華麗な山鉾でお迎えするお祭りとして現代に受け継がれているのが、丹波の祇園祭と呼ばれる「亀岡祭」(正式名 鍬山神社秋季大祭)です 11基の山鉾のイラストはこちら。
また、丹波湖の湖岸であったと伝えられる遠く離れた現亀岡市東別院町鎌倉の山腹には鎌倉神社をつくり、大国主命とともに、大国主命を手助けしたとされる大国主命の弟神の少彦名命(すくなびこなのみこと)をいっしょにお祀りしました。