丹波湖昔話し

和のこころ 2/4

松尾の神さま

もうひとつは、現京都市西京区の松尾大社の神さまによる丹波開拓の伝承です。

浮田峡(現保津峡)の下流に位置する山背国(現京都市)の松尾大社の神さまも、浮田峡を整えて丹波湖の水を下流に流せば、丹波湖は実り豊かな国となり、一方で、この水を山背国の農業用水として利用すれば、山背国も豊かになるだろうと考えられました。

感謝のこころ

そこで、鋤(すき)で浮田峡を拓いて丹波湖の水を下流に流す一方で、浮田峡の下流に大きな堰(ダム)をつくり、分水した水を山背国の農業用水として利用する大工事を行なわれた結果、丹波国も山背国も実り豊かな国となりました。

なお、「大きな堰」がつくられた浮田峡下流は「大堰川」と呼ばれ、これら工事で発生した土砂が積まれた右岸の山が「荒子山」(現在の嵐山)、左岸を「亀山」と呼ばれるようになったと言われています。

 渡月橋上流のダム 葛野大堰

請田神社

感謝のこころ

こうして丹波の国づくりを行なってくれた松尾の神さまに感謝した丹波の人たちは、浮田峡上流の入口の左岸(現亀岡市保津町)に「石穂神社」をつくり、対岸(現亀岡市篠町)に「浮田神社」をつくって、各々に松尾の神さまをお祀りしました。

なお、左岸の石穂神社は、後に「請田神社」と呼ばれ、右岸の浮田神社は、明治初期に「桑田神社」と改名されて現在に至っています・・・ややこしい!

 請田神社(左)と嵯峨野トロッコ列車(右 右奥に桑田神社)

請田神社

なまずと亀と鯉

ところで、松尾の神さまは浮田峡を拓かれたあるとき、誤って川に転落して溺れそうなりましたが、現桑田神社の近くから2匹の鯰(なまず)が現れて神さまを助けたとされ、桑田神社の氏子は現在でも鯰を大切にし、神社の社紋は「向いなまず」が用いられています。

 桑田神社社紋 向いなまず

桑田神社社紋 向いなまず

そして、拓かれた丹波国が、さらに豊かになる術を丹波の人たちに伝えたいと考えられた松尾の神さまは、亀の背に乗って浮田峡を遡られ、流れが急となったところからは鯉に乗り換えて丹波の国をめざされました。

こうして着かれた神さまをお祀りしたのが現亀岡市大井町の大井神社で、この亀岡市大井町では、神さまが乗ってこられた鯉を大切にし、現在でも鯉を食べず、鯉のぼりも上げません。