そのとき 光秀

明智光秀イラスト

敵は本能寺にあり

大阪府岸和田市の本徳寺には、明智光秀とされる肖像画が保管されていますが、経年劣化の変色を修正された某復元画を参考にイラストを作成してみました

知性すら感じるこの光秀が、手に々篝火を持って光秀の周りに集まった光秀軍の面々に「敵は本能寺にあり!」と織田信長のいる東の方向を指した・・・と言うのが多くのドラマ等のイメージですが、これは江戸時代の歴史化である頼 山陽と言う人が作った創作なのです。

本能寺の変

明智軍が丹波亀山城を発して京の本能寺へ向かったときの年齢は、

織田信長 49歳

羽柴秀吉 46歳

徳川家康 41歳

そして

明智光秀は55歳だったのです。

光秀の生年は不詳で、通説の年齢ですが、戦国時代の平均年齢が40歳であったことを踏まえて現代に置き換えれば、光秀はすでに70歳をこえた老齢だったのです。

明智光秀イラスト

覚条々

そこで、このときの光秀を、本徳寺の肖像画を参考にイラストにしてみました。

こうした老齢の光秀が、なぜ信長を討ったのかは不明ですが、本能寺の変の7日後、光秀と長く行動をともにし、婚姻関係もあった細川藤孝、忠興父子にあて、光秀が送ったとされる熊本県立永青文庫所蔵の「明智光秀覚条々」という書状に、その謎を解く一端があると言われています。

この書状は、本能寺の変の報を聞けば、自分のために起ってくれると思っていた細川父子が、予想外の中立を示したことから、細川父子に対して自分への味方を懇願した内容で、その要約は

信長を討ったのは(細川藤孝の長男で光秀の娘の玉の夫)細川忠興を取り立てるためであった。

今後は50~100日で近畿を統一し、これらすべての領地は細川忠興や(自分の長男の)明智光慶に渡して自分は身を引く。よって味方になってほしい。

この書状は後年につくられた偽物ではないかとも言われていますが、隠居を前提として細川父子へ憐憫を乞うような内容等は、すでに老齢に域にありながら他の大名との脈絡も通じない無策無謀の単独クーデターを実行した光秀の冷静さを欠いた心境を写しているようです。

打算

ところで、後の時代に「光秀の三日天下」と言われますが、光秀は、数日たりも天下を手に入れてなどいません。

本能寺の変は、信長が手に入れつつあった天下を、群雄の武将や諸大名が自分たちのものにするきっかけにすぎなかったのです。

このとき、武将や諸大名が、誰に加勢するかの判断は、信長に対する忠義や光秀との朋友などというあいまいな基準ではありません。いかにして生き残り、どのように勢力を拡大するかという打算です。

勝算

よって、多くの武将や諸大名は、光秀の年齢と「明智光秀覚条々」に記されたような光秀の心境を見抜く一方、大名宛に親書を送りながら、備中高松城攻めから一転して東へ返した羽柴秀吉に勝算を感じたことは当然であり、光秀軍は、圧倒的な軍勢の秀吉軍に敗退します。

一方、朋友であった光秀の誘いを無視して中立を決め込んだ細川親子は、その後、光秀に勝った秀吉に重用されることとなります。

方向

70歳をこえた老齢の光秀が本能寺の変のクーデターを起こした「そのとき」、歴史の方向はすでに定まっていたのかもしれません。

イラストは、岸和田市本徳寺蔵の伝明智光秀像復元イメージと、これをベースにした本能寺の変のときの光秀のイメージイラストです。