亀岡市は、明智光秀が、丹波地方攻略の拠点として丹波亀山城を置いたまちであり、光秀を亀岡市の礎を築いた先人とし、また、他のまちでの伝承等を引用し、領地で善政を行い、領民に慕われた智将として称えています。
光秀が、この地に丹波亀山城を置いたことが「結果」として現在の亀岡市につながっていることは事実ですが、市内各地の社寺等の説明板の記載内容は、むしろ光秀を否定的にとらえる内容となっているのです。
神応寺
神蔵寺
龍潭寺
丹波国分寺
宝林寺
では「光秀に焼かれ」と書かれ
養仙寺
瑞巌寺
には「お堂や石塔、石垣は丹波亀山城の築材として持ち去られた」と記され
加舎神社
宮川神社
は「光秀の戦火で社殿を焼失し」と説明されているのです。
さらに、丹波亀山城近くにある鍬山神社の神田を没収したとの記録がありますが、こうした強行は一部に過ぎないようです。
一方、光秀は、築城の用材として持ち去った社寺に対し「お堂などを再建して繁昌の霊地とする」との願を立てたと言われていますが、それを履行したとの記録はありません。
さらに、丹波亀山城の築城にあたっては、丹波の土豪を動員して普請(作業)を行っていますが、支給された米の量は、1人あたり1日8合支給が一般的であった当時の支給量を大きく下回る6合であったとされています。
また、近年に発行された日本城郭大系に掲載されている「山田金左衛門家文書」によると、丹波亀山城の東約2kmに位置し、大工村を形成していた馬掘地区の山田金左衛門という人物とその一族が丹波亀山城の築城を命じられましたが、城の完成とともに絵図面の提出を命じられ、それと同時に山田一族の男の多くが姿を消したそうです。
これは秘密保持のために「消され」、男たちは「なまず」になったとの言い伝えがあったと書かれているそうですが、この馬堀地区から、隣接する山本地区へ移されたとされる桑田神社の社紋は「向かいなまず」ですが、なにかのつながりがあるのかもしれません。
この丹波亀山城が光秀の丹波亀山城であるとは明記されていませんが、山田金左衛門家文書の年代をたどると、光秀が丹波亀山城を築いた年代と一致し、光秀によって「消された」示唆を感じます。
さらに、丹波亀山城を発って本能寺へ向かう際、光秀は「疑わしきは斬れ」と命じ、家臣は、京へ至る峠で、早朝の農作業を行っていたまったく無関係の農民20~30人をいきなり斬り殺しているのです。
このまちに丹波亀山城が置いた光秀以外の光秀をたどっていくと、善行を行ったとされる通説とは異なる、強権、冷徹、非道の光秀の側面が浮かびあがってきます。
しかし、光秀が「悪」なのではありません。これが戦国時代に普遍的に行われていた事実であり、かつ、現代の戦争や紛争も同じです。
いつの時代であっても、戦さに「正義」や「善」などはありません。そのこと認識するのもこのまちであり、平和に向かいあうなまずがいるのも、このまちなのです。