晩秋の丹波国分寺跡
亀岡市には丹波国分寺(跡)があり、全国にも60数ヶ所の国分寺(跡)があるのですが、なぜか人気がありません。
また、奈良の大仏を知っていても、大仏さんがおられる東大寺は、全国の国分寺を統括する総国分寺だということはあまり知られていないようです。
各地の国分寺は、いまから約1300年前、頻繁に起こる災いや社会不安を仏教で治めようとした聖武天皇が各地の豪族に命じてつくらせたお寺です。
そして、これら国分寺を統括する「総国分寺」として建立されたが東大寺で、その正式名称は「護国之寺」=国を護るためのお寺なのです。
一方、聖武天皇は5年間に4回も都を移しましたが、これらすべては政情の不安から逃れるためだったと言われており、いずれも民心と離れたところで行われた巨大な国家プロジェクトだったのです。
しかし、これら巨額の国家プロジェクトの経費は戸籍に応じた税で、国分寺の建立にかかる経費のほとんども地方豪族に強いられたこと等から、火災等によって失われた国分寺が復旧されることはなく、多くの人の心の救済とは無縁だった国分寺が民衆の手で再興されることもありませんでした。
民心を離れた国家プロジェクトは時を経ても人々を惹きつけないのかもしれませんが、当時、各地方の最もいいところを選んで国分寺を建立せよとの命によって選ばれた地は、その地方のいちばんいいところであったことは事実です。
つまり、丹波国分寺が置かれた亀岡市は、現在の京都府と兵庫県にまたがる広大な丹波国のなかで最も優れた地として選ばれた証と言えるのです。
なお、東大寺を始めとする「国を護る仏教のお寺」である奈良の南都六宗は、説法はせず、葬式もしませんから墓地もありませんが、現在の丹波国分寺跡には、地域の人たちの救いのための浄土宗の小さなお寺が置かれ、晩秋には境内一面が美しい銀杏の葉で埋まります。イラストは在りし日の丹波国分寺のイメージです。