尊氏奉納鎧

その鎧 亀岡からニューヨークへ

篠村八幡宮

足利尊氏は、現亀岡市の篠村八幡宮を深く敬い、太刀や鎧等を奉納するとともに、鎌倉幕府を倒す緒戦として京の六波羅探題を攻めるにあたっては、ここに兵を集めて戦勝祈願の旗揚げを行いました。

こうしたことから、篠村八幡宮は武運の神社とされ、江戸時代には丹波亀山藩の直轄の神社として庇護されてきました。

逆賊の鎧

鎌倉時代末期、後醍醐天皇が行った「建武の新政」と同様の天皇を頂点とする国家体制を基本とした明治新政府は、後醍醐天皇に背いた足利尊氏を「大逆賊」と位置づけ、足利尊氏や室町幕府にかかわるすべてを排撃の対象としました。

こうしたなか、足利尊氏の奉納鎧も忌避の対象とされ、八幡宮の近くの医師松井家へ処分されましたが、間もなく京の古美術商に売却されることとなります。

ニューヨークへ

こうして「処分」された奉納鎧は、やがてアメリカの鎧愛好家であったバシュフォード・ディーン氏の目のとまってその価値を見出され、アメリカに渡ることとなります。

そして、1914年(大正3年)に氏がニューヨーク州のメトロポリタン美術館に寄贈され、貴重な日本の古式鎧として大切に保管されますが、この鎧を調査された日本の専門家は、国宝級であると断言されたそうです。

足利尊氏奉納鎧

国宝の鎧

一方、明治新政府は、後醍醐天皇に忠義を誓って足利尊氏に劣勢で挑み、自刃した楠木正成を国民の鏡として位置づけましたが、その楠木正成も奈良の春日大社に鎧を奉納しており、この鎧は国宝として指定されることとなりますが、これらふたつの鎧は、為政者によって人心や世相が左右されることを示す象徴のようです。

楠木正成奉納鎧

戦陣訓へ

ちなみに、天皇の忠義のもとに自刃した楠木正成を国民の鏡とした明治政府の基本理念は「天皇のため」を旨とする戦陣訓として国民の心に焼きつけられます。

そして、天皇自身が意図しないその後の度重なる戦争のなかで、楠木正成の自刃に通ずる玉砕や特攻へとつながっていきます。

格技の武運

なお、武運の神社とされた篠村八幡宮は、現在、地域に受け継がれ、相撲の土俵が置かれて子ども相撲大会等が行われるなど「格技の武運」の八幡さんとして地域に親しまれています。