鹿苑寺 通称「金閣寺」
室町時代と言えば、240年にわたって朝廷と幕府がともに京にあり、鹿苑寺金閣に代表される北山文化を始めとして銀閣寺や枯山水庭園など東山文化、さらには能や狂言、茶道や華道などの文化が京の都で育まれた時代ですね。
つまり「京の文化は室町文化」と言えるのですが、京の三大祭のひとつで、平安時代から明治維新までの各時代の装束で京のまちを歩く「時代祭」のなかに、2007年(平成19年)まで、この室町時代の行列は無かったのです。
なぜなら・・・時代祭は、平安遷都1100年記念事業として明治28年(1895)に平安神宮がつくられたときに始められたお祭りですが、その内容は、平安神宮のご祭神である平安京を置かれた桓武天皇ならびに平安京最後の天皇である孝明天皇が、お供の行列を従えて平安神宮へ行かれるという設定なのです。
だから、時の天皇を裏切って足利幕府をひらいた「逆賊」足利尊氏を初代として15代続く室町時代の足利将軍は、すべて「朝敵」で、これらがお供などもってのほかであるとして室町時代は除外されたのです。
ちなみに、3代将軍の足利義満がつくった3層の鹿苑寺金閣は、最上部が仏殿造り、2層は武家造りで各々に金箔が施されているものの、朝廷や公家を示す寝殿造りの1層は素木造りで、仏や武家は朝廷の上に位置するとの権威を示したものだと言われています。
しかし「時代祭に室町時代が無いのはおかしい」と意義を唱えられた人が現れます。グローバルな視点をお持ちだった歴史学者で京都大学名誉教授であった故上田正昭氏です。
上田教授は、時代祭の時代考証委員の就任依頼があったとき、室町時代を加えることを条件に承諾され、このことが室町時代を加えるきっかけとなったのです。
ところが「室町時代」は渋々に容認されても「足利」には依然として抵抗があり、結果として、室町時代の庶民の踊りと室町末期に都を焼き尽くした(!)細川・山名両大名の行列を加え、これら武将には立派な甲冑を揃えたものの、初代足利尊氏から15代続いた足利幕府将軍は「足利将軍」と抽象的な表現として、武具も簡易なものとされました。
かたちだけでも室町時代が加わったことに上田教授は安堵されたそうですが、上田教授が室町時代にこだわられたのは、足利尊氏が京の六波羅探題襲撃に向けて旗揚げを行った篠村八幡宮のある亀岡市にお住まいであったこととまったく無関係であったとは言い切れないかもしれません。