安土城は「天の主」を示す「天主」です。
斬新な思考で新しい時代を拓いてきた織田信長は、朝廷や大名、寺家等の利権が複雑に絡み、戦さと混乱が続く戦国の世に終止符を打ち、中国の古書に記された「七徳の武を備えた者が、その徳をもって天下を治める」を範として泰平の世をつくろうとしました。これが、信長が旗印とした「天下布武」です。
この「七徳の武」とは
1.暴を禁じる
2.戦をやめる
3.大を保つ
4.功を定める
5.民を安んじる
6.衆を和す
7.財を豊かにする
であり、信長の戦いは「七徳の武」を布くことを妨げる旧守勢力との戦いだったのです。
ところが、破竹の勢いで戦さに勝ち進み、近江の地に安土城を築くころから、泰平の世を願った信長のこころに慢心がひろがっていました。
宣教師フロイスから、西洋の絶対唯一の神である「天の主」デウスの存在を聞いた信長は、自からが日本の「天主」であるとし、フロイスからあわせ聞いた高層教会を模した高層の楼閣を建立して、自らが起居するこの楼閣を「天主」と呼ばせたと言われています。
山城や砦が一般的だったそれまでの城からは考えられなかった層塔型の地上六層の天主の最上階は黄金に輝き、天皇を迎える御座所はこの天主から見下す下方に置いて、その下に延々と続く石畳道の両側に家臣の館を配置して権威の序列を示しました。
さらに、信長は、この城のふもとに総見寺を建立して「盆山」と呼ばれる石を置き、これを信長の化身であるとして、誕生日には家臣や民衆に礼拝するよう命じたと記録されています。
信長にデウスのことを語ったフロイスは、こう書き残しています。
「信長はデウスのみに捧げられるべき祭祀と礼拝を横領するほど狂気じみた言行と暴挙に及んだ」。
そうした慢心も、現亀岡市の丹波亀山城を発った明智光秀によって本能寺の炎と消え、安土城天主も原因不明の出火で焼け落ちますが、行き過ぎた慢心は、光秀ならずとも誰かによって打ち砕かれたかもしれません。
後の世に、福沢諭吉が「権力は必ず腐敗する」と言ったように、信長の慢心と腐敗は、現在にも通ずる事実です。
ちなみに、後年、徳川幕府の天下普請を受けた大名らは、自らの藩に安土城の「天主」を参考に層塔型の楼閣を築き、明智光秀が本能寺へと発った丹波亀山城にも新たに五層の楼閣が築かれますが、これらの楼閣は「天守」と呼ばれ、「天主」と呼ばれることはありませんでした。
ところで、かつて、亀岡市で「光秀サミット」が開かれたとき、パネラーとして参加された安土町長さん(現近江八幡市)が「参加したことは町民には言わないでほしい」とおっしゃったことを知っているのはごく一部の関係者だけとか(^^)
イラストは推定復元模型等を参考にした安土城天主のイメージイラストです。