1689 元禄2年9月12日号
本かわら版は創作です。
月さびよ明智が妻の話せむ
芭蕉 光秀と妻 煕子の愛を詠む
松尾芭蕉は、越前で聞い明智光秀と妻・煕子(ひろこ)の愛を伊勢の弟子のために詠みました。
元禄二年九月、芭蕉は伊勢の弟子・島崎又幻の宅に宿泊し、貧しいながらも暖かい又幻夫妻のもてなしに感動し、同年六月に福井丸岡の称念寺で聞いた明智光秀と妻・煕子(ひろこ)の愛の物語を、弟子に詠んで贈りました。
芭蕉が称念寺で聞いた物語は以下のとおりです。浪人であった光秀は、称念寺に居を借りて妻や娘と暮らしていましたが、生活はたいへん苦しいものでした。
ある日、称念寺の住職が光秀の和歌の才能を認め、越前大名の朝倉家との連歌の会を催す機会を設けてくれましたが、光秀には、酒肴を準備するお金も無いままその日を迎えます。ところが、連歌の会場にはたくさんの酒肴がならび、連歌の会は成功裡に終了したものの、宴の片付けをしている煕子をふと見ると、美しい黒髪はばっさりと切られていたのです。煕子は、自らの黒髪を売って、光秀のための連歌の会の費用を捻出したのでした。
光秀は、そんな煕子に仕官を誓い、やがて朝倉家の家臣への登用をきっかけに、時代の表舞台で活躍するのです。
光秀と煕子の婚約時代、煕子は疱瘡にかかって、顔に痘痕ができてしまいました。
でも、この縁談を大切にしたい煕子の父・妻木範煕は、煕子にそっくりだった妹の芳子を光秀のもとへやりましたが、光秀はそれを見抜き、婚約者の煕子を妻として迎えたと言われています。煕子は、そんな光秀を、献身的に支え、光秀も、正室・煕子以外に側室を置きませんでした。
大津市の西教寺にあるふたりのお墓といっしょに建てられている芭蕉の句碑には、こう刻まれています。
月さびよ明智が妻の話せむ。
本かわら版は、大河ドラマ「麒麟がくる」の放映にあわせ、関係団体のためにつくった「丹波亀山かわら版」明智光秀シリーズのうちの一部で、光秀の美化に特化した内容です。