1582 天正10年6月2日号外
本かわら版は創作です。
1万3千の明智軍 丹波亀山から京へ
明智光秀 京・本能寺に 信長を討つ
6月2日夕刻未明、明智光秀は、京・本能寺で織田信長を討ちました。
信長から、備中高松城の攻略に難渋している羽柴秀吉の援軍の名を受けた光秀は1万3千の軍を率いて6月1日の夕刻に丹波亀山城を発ち、老ノ坂峠をこえる本隊と唐櫃越をこえる別働隊の2隊で峠を越えました。
そこからは、備中のある西へ進路を変えるはずでしたが、闇に包まれた京のまちをそのまま東へ進み、6月2日未明、信長が宿泊していた本能寺を包囲しました。
急襲を行った軍勢が有能な光秀であることを知った信長は。自らも弓や槍を持って応戦しましたが、傷を負い、もはや逃れることができないと悟ると、殿中の奥深くに入り、内側から納戸を締めました。
しばらくすると、ここあら激しい出火がありましたが、これは信長自身が火を放って切腹したものと思われています。
なお、現在のところ、光秀側から、信長を討った動機などは発表されていません。
明智光秀が京に向けて軍を発した亀岡市には、旧体の鎌倉幕府を倒して新しい時代をつくるために足利尊氏が旗揚げを行った篠村八幡宮があります。
丹波亀山城を発った光秀は、この篠村八幡宮に重臣を集め、織田信長を討つことを明かしたとも言われています。
これが事実であれば、明智光秀は足利尊氏に倣い、信長を倒して新しい時代をつくることの決意を家臣に表明したのではないでしょうか。
光秀の描いた新しい時代・・・それは、信長のような強権行使の治世ではなく、光秀がそれまでに行ってきたような攻略した領地の国人衆との和合や領民に善政を敷く「和」の治世だったのではないでしょうか。
本かわら版は、大河ドラマ「麒麟がくる」の放映にあわせ、関係団体のためにつくった「丹波亀山かわら版」明智光秀シリーズのうちの一部で、光秀の美化に特化した内容です。
管理人も自作の手づくり甲冑を着用し、丹波亀山(現在の亀岡)から京へ、別働隊が進軍したとされる唐櫃越の峠道を踏破しました。
季節は、光秀が本能寺に討ち入った同じの初夏。
装備のほとんどを省略していましたが、甲冑を着用してアップダウンのある峠を延々と歩くのは酷暑の苦行で、黒い甲冑は汗の塩で白くなり光秀軍が涼しい夜中に進軍し、未明に討ち入った理由が身をもってわかりました。