以上のように、丹波開拓の伝承には、大国主命を主人公とするお話しと、松尾神社の神さまを主人公とする物語のふたつの伝承があります。
ところで、こうした伝承には、事実を誇張したお話しや感謝のこころのを表現するためにつくられた物語等がありますが、丹波開拓伝承の背景にあるこれら側面をちょっとだけ掘り下げてみることにします。
まずは、丹波湖の側面です。
亀岡盆地が大きな湖であったとの伝承は、そう遠くない祖先が目にした丹波湖の記憶に基づくものだとされ、公的な文書などにも「約200万~500万年前の亀岡盆地は、周囲を山々に囲まれた巨大な湖で・・・」と書かれ、亀岡盆地が、かつて湖だったということは通説となっています。
ところが、200万~500万年前といえば、大陸と日本列島が陸続きで、巨大なマンモスが生息していたころで、極東に私たちの直接的な祖先である現代型人類が現れた約5万年前をはるかに遡り、神話の神さまさえおられなかった大昔のことで、そう遠くない祖先が丹波湖を目にしたとは考えられないのです。
つまり、現代に伝わる丹波開拓の伝承は、保津峡が現在よりもずっと狭かったころ、大雨の度に逆流と氾濫を繰り返し、せっかく育った作物が水害を受け、なおかつ内水が引かない「湖」と呼ばれるに等しい丹波へ、これを改善する術を持った人たちがやってきて、丹波の国づくりを行なってくれた、あるいは、ともに丹波の国づくりを行なったことの投影だったのです。
その人たちのひとつが、大国主命に例えられた、出雲地方からやってきた人たちです。
「国づくり」で知られる出雲地方の神さまの大国主命が丹波を開拓されたとの言い伝えは、出雲地方に伝わる鉄の文化を持った人たちが丹波へやってきて、鉄の道具で保津峡を拓き、鉄の農具で丹波の水田を整えたことの表現だったのです。
また、五穀豊穣の神さまの三穂津姫命を出雲大神宮にお祀りしたのは、丹波開拓と同時に稲作の技術をひろめた出雲地方の人たちを三穂津姫命に例えたのであり、大国主命をお祀りする鍬山神社の「鍬が山になった」との由緒は、出雲地方からやってきた人たちによってもたらされた鉄の文化への敬意ではないでしょうか。
もうひとつは、松尾神社の神さまに例えられた、百済からの渡来人「秦氏」です。
5世紀初め、朝鮮半島の百済から渡来した秦氏は、稲作や土木、養蚕や絹織物などの多くの分野ですぐれた知識や技術を持ち、山背国葛野(現嵯峨野嵐山地域)に松尾大社を置いて、秦氏一族の氏神をお祀りし、ここを中心に様々な活動を行いました。
土木技術に長けた秦氏は、葛野の上流の浮田峡を拓いて丹波の水田を整え、桑を植える田畑も開拓して養蚕を興し、絹織物の生産を振興しました。
なお、秦氏による「桑の田」の整備の功績は丹波国「桑田郡」の地名として残り、平成の市町村大合併で桑田郡の地名が消えるまでの1000年以上にわたって受け継がれてきました。
また、この一方で、浮田峡の下流に大きな堰をつくり、農業用水を取水して山背国の稲作を進めましたが、松尾神社の神さまの伝承は、秦氏による丹波開拓や葛野の地の開発の言い伝えだったのです。
秦氏が一族の氏神をお祀りした松尾大社は京都最古級の神社のひとつで、秦氏の名に由来する地名の「太秦」に、秦氏の氏寺として建立された広隆寺も京都最古の寺のひとつで、ここには国宝第1号の弥勒菩薩像が安置されています。
また、全国に約30000社ある稲荷社の総本宮の伏見稲荷大社も、五穀の豊穣を願い、秦氏が五穀豊穣の神さまをお祀りした神社です。
なお、秦氏は、大堰川、賀茂川、高野川が流れ込む未開の沼地であった山背国(現京都市)を干拓し、この地に平安京が置かれるにあたっては、都の中心となる大内裏の土地や私財を提供するなど、大きく寄与しました。
ところで、国の中心である都には、建築に必要な木材等の資材や日々の食料などを多く必要としますが、山背国に隣あって秦氏が整えた丹波の地は、こうした要件を十分に満たし、かつ、秦氏が拓いた浮田峡と大堰川は運河の役割を果たすなど、平安京遷都やその継続には、丹波国が大きな役割を担いました。