丹波湖昔話し

和のこころ 4/4

人々に

このように、丹波開拓の伝承をちょっと掘り下げてみると、水害に悩まされ「湖」と呼ばれるに等しい丹波を、これを改善する文化や術を持った出雲の人たちや秦氏が丹波の国づくりを行なってくれた、あるいは、ともに丹波の国づくりを行なったことが、伝承として丹波の人々に伝えられてきたことがわかります。

和と感謝

そして、これら伝承には、異文化が接触するところで見られるいざこざや争いなどは、まったく感じられないのです。

つまり、出雲文化と秦氏の文化の摩擦や、他の文化の流入を拒否した丹波の人たちの姿勢も無く、各々が「和」と「感謝」のこころで、ともに丹波を拓いたことが伝わってきます。

さらに、出雲の神さまの大国主命は「八柱の神さまと相談された」とされていますが、「八柱の神さま」とは丹波の人たちの例えであり、出雲の人たちは、丹波の人たちと相談しながらいろいろなことを進めていったことの言い伝えだと思われます。

蹴裂伝説

また、盆地が多い日本では、湖が開かれて国ができたとされる伝承が全国各地にありますが、その多くは「蹴裂伝説」と呼ばれる「神さまが足で谷を蹴って裂かれた」などの乱暴な内容の伝承が多いのですが、丹波開拓の伝承では、神さまが鍬や鋤でコツコツと谷を拓かれたとされており、これは「自然へのやさしさ」や「他者への思いやり」に通ずるものです。

和と感謝

このように、丹波開拓の伝承が伝える「和」や「感謝」、「やさしさ」や「思いやり」・・・これらは、現在の私たちがちょっと昔に置いてきたことで、「デジタルと情報化の時代には、そんなもんいらん!」と言われるかもしれませんが、これらアナログの化石(!)みたいなことがちょっと広がれば、デジタル化ともに広がった「癒やし」などという言葉も、すこしは少なくなるのではないでしょうか?

ちなみに、神社の参拝は、丹波の人たちに受け継がれてきたように、まず「感謝」し、そして、すこしだけ「お願い」するのがルールだそうなので、覚えておきたいですね

おまけ1 神社の創建年の大ウソ

このコーナーでは、たくさんの神社の紹介しましたが、各神社に伝わる創建年を調べてみると、次のようになります(省略した神社や加えた関係神社もあります)。

■大国主命の伝承の神社

 出雲大神宮   709年

 鍬山神社    709年

 鎌倉神社    710年

■松尾の神さまの伝承の神社

 松尾大社    701年

 請田神社    709年

 桑田神社    709年

 大井神社    710年

 松尾神社(亀岡)708年

(伏見稲荷大社  711年)

このように、各神社の創建年は、701年から710年の間に集中しています。

そして、各々の神社でお祀りされている神さまのほとんどが、古事記や日本書紀の神話に登場される神さまなのですが、この記紀が書かれたのは、

 古事記     712年

 日本書紀    720年

と、後年なのです。

 鍬山神社お札
鍬山神社お札

つまり、各々の神社が、後から書かれた記紀に登場する神さまを先にお祀りするとは考えにくく、各神社の創建年は、律令制や神話の編纂を通じて天皇中心の国づくりが進めようとしていた中央権力への忖度や迎合を背景として、後年に「後付け」(!)された大ウソで、各神社にお祀りされている神さまも、格付けや権威のための「後付け」だったのかもしれません。

しかし、創建年とされるずっと以前から丹波の人たちに伝えられてきた出雲の人たちや秦氏への感謝のこころが、これら「後付けの権威」(!)と混じりあいながらも、忘れられることなく大切に伝えられてきたのは、権力とは無縁の人たちの伝承として受け継がれてきたからでしょう。

たとえば、鍬山神社の祭神は大国主命ですが、地域ではこのことがあまり意識されず、「口丹波開発神 鍬山大明神」と呼ばれていることからも伺い知ることができます。

おまけ2 江戸時代の保津川開削

戦国の混乱を納めた徳川家康の時代、京都の豪商であった角倉了以は、保津峡を整備し、「高瀬舟」と呼ばれる船底が平たく舳先が長細く高い舟を考案し、丹波の物資を川を利用して京の都へ流通させましたが、これが、現代の観光舟「保津川下り」につながっていきます。

角倉了以が、保津峡を整備したようすは、京都/中京区の瑞泉寺に縁起絵巻として残されており、この絵巻の一部をイラストにしました。

 瑞泉寺縁起絵巻部分イラスト
瑞泉寺縁起絵巻