医心方 現代語訳
これは、食物栄養学の教科書の文章ではありません。現存する日本最古の医術書として国宝に指定されている「医心方」(いしんぼう)に書かれている言葉です。
医心方は、いまから約1000年前の982年(永観2年)、後漢の渡来人の子孫と伝えられる丹波康頼(たんばのやすより)が丹波国(現亀岡市)で著した医術書です。
丹波康頼は、医心方の成就に向け、医療の神さまとされる大国主命をお祀りする現亀岡市上矢田町の鍬山神社に願をかけたとされ、同下矢田町には、康頼の住まいがあったとされる「医王谷」の地名が残され、同宮前町の金輪寺には、康頼の供養塔が伝えられています。
医心方の内容は、隋や唐から伝わった約120冊以上の医書を参考にして、内科・外科、薬科、婦人科、産科、小児科、針灸、食養法等の30巻にまとめた総合的な医術書で、丹波康頼から、当時の朝廷に献上されました。
ところで、このページの最初で紹介した「穀物は身体を養い・・・」は、医心方全30巻のなかの、巻30「食養編」の最初に書かれている項目で、この食養篇では「食べものは体を養うことはもとより、各々に薬効がある」として、穀物、果物、肉類、野菜など162種類に及ぶ食べものの効能が説明されています。
あぜ豆の大豆
たとえば「大豆の働きは米に勝る」と説明されていますが、大豆が、高タンパクで低カロリーの良質な食べものとして古くから知られ、味噌や豆腐、醤油、揚げ、おから、湯葉、きな粉などに加工されて現代にも受け継がれてきたことは周知のとおりです。
ただ、生の大豆は毒性があり、そのまま食べると、下痢、嘔吐、膵臓障害、呼吸困難等を引き起こすことがありますが、加熱すると毒素は消滅します。
よって、食養編では「大豆は、蒸す、または煮ること」とされてますが、加熱によって毒性が消され、すぐれた健康食となることが示されているのです。
また「小豆は、利尿を促す」と説明されているのは、小豆に含まれるサポニンの利尿効果や有害物質を排出する薬効を示したものですが、医心方が示した小豆の利尿効果と美肌の薬効が朝廷のなかにひろがり、やがて、和菓子の文化として定着したのではないかとも言われています。
さらに「大根は、消化を助け、魚肉の毒を消す」と説明されていますが、これは、大根に含まれる消化酵素のジアスターゼの薬効を示したもので、「魚肉の毒を消す」との薬効は、魚の刺し身に大根が添えられて現代に受け継がれてきました。
このように、医心方が示した「医食同源」の内容は、医心方の名は知られずとも、時代とともに多くの人々に伝えられて実践され、暮らしのなかの食の知恵として受け継がれてきました。
ところが、こうしたことが忘れかけられた昭和の後半、成人病や生活習慣病が問題になってきました。
そこで、正しい食生活によって健康な体をつくることを目的とし、1985年(昭和60年)に当時の厚生省が「健康づくりのための食生活指針」を策定し、その後も、文部科学省、厚生労働書、農林水産省が協力して「食生活指針」の策定と変更を重ね、2016年(平成28年)版を最新として現代に至っていますが、これら指針の基本的な内容は次のとおりです(抄)。
これは約1000年前に書かれた医心方 食養編の最初に書かれている内容とほぼ同じです。
つまり、各専門分野の専門家の知識や膨大な時間を費やして策定された食生活指針は、医心方の知恵が活かされた、ちょっと前の日本の食がいちばんいいことの気づきだったのです。
しかし、某ファーストフードを知っている人の割合は98%をこえる反面、食生活指針を知っている人の割合は4%に満たないとの調査結果があり、医心方を知っている人の割合は数%に満たないかも知れません。
もちろん、「経済学は心理学」と言われるように、消費市場で優位に立つためには、感性に直接に訴えるカラフルでファッショナブルな刺激的な情報発信がビジネスの常套の現代では当然のことで、おカタイ言葉など見向きもされません。
でも、すこし前の日本の食がいいことは事実であり、このことを発信するのは、医心方が著されたまちの役割だと思います。
ところで、医心方巻1「医学概論編」には、医師の心構えが次のように書かれています。
医師は、欲得を捨て、すべての病苦を取り除くことを心がけよ。
身分の貴賤や貧富、年齢、怨敵や親しいもの、田舎者や都会人、智者や愚者などすべての人に親心で臨むべきである。
患者の苦しみをわが苦しみのことのように思いやり、へき地であろうと、昼夜、寒暑、疲労をものともせず、ただ一心に救いに赴くべきである。
名声を望んだり、他の医師をそしったり、自慢してはならない。
この内容は、決して、医に携わる人たちだけの心構えではありません。
日々の食と同じように、こころのなかに留め、すこしでも実行できれば、さらに温かい社会になるのではないでしょうか。こうしたことも、医心方が著されたまち 亀岡の役割だと思います。
槇 佐知子さんエッセイ集
槇 佐知子さん
難解な医心方は、古典医学研究家の槇 佐知子さんが、1973年(昭和48年)から独学で現代語訳に取り組まれ、20年後の1993年(平成5年)に巻30養生編を発刊されて以降、逐次、発行を重ねられ、その後20年の歳月を経て2013年(平成25年)に全巻の発刊を完了、医心方30巻のすべてを、私たちが現代語で読めるようになりました。
亀岡市で講演をいただいたときにお会いし、すこしお話しさせていただいた氏は、小柄で華奢な方で、話し方も柔らかく、どこにそのような力があるのかと思いました。
なお、氏は、2023年(令和5年)、医心方とともに歩まれた人生を全うされ、89歳で逝去されました。出会いに感謝し、謹んでご冥福をお祈りします。