京都府内のなかでも際立って彼岸花の群生が多いとされる亀岡市ですが、この彼岸花は遠い昔から自然に生えていたと思っていたら、そうではないそうです。
考古学者 樋口清之氏によると、彼岸花は、中国の揚子江のほとりに自生していたものを、平安時代末期のころに留学僧が持ち帰って広めた帰化植物で、その目的は、飢饉のときに飢えを凌ぐ「救飢植物」だったそうです。
異常気象等で稲が充分に実らなかったとき、彼岸花の鮮やかな赤い花はその在処を知らせてくれます。
そして、赤い花を目印に掘り起こした彼岸花の球根はそのままでは猛毒を含んでいますが、水にさらせば良質なデンプンとなり、飢饉時の非常食になるのです。
しかし、彼岸花は種子をつけないので球根でしか繁殖せず、1年に10cm程度しか広がらないので、人々はこの球根を分けて人里近くや田んぼの畦に植えて広げ、むやみに掘り返さないようにわざと忌み嫌われる名前をつけたのだとされています。
つまり、彼岸花の別名が1000以上に及ぶのも、こうして飢餓の備えとして暮らしのなかに広く定着してきたことの証だともされています。
秋の風物詩の彼岸花ですが、遠い過去に忘れ去られたこうしたメッセージにいまいちど耳を傾けると、いろいろな側面での備えの大切さが聞こえてくるようです。
画像は、亀岡市曽我部町の「彼岸花の里」です。