全国には1700余りの市や町村がありますが、どのまちの行政も観光団体も、自分たちのまちをPRするフレーズのほとんどが「水」や「みどり」「自然」や「歴史」。
「そんなもん どこにでもあるやんけ!!!」と言った人がいますが、それって亀岡市も同じかも。
でも、ちょっと見方を変えれば、亀岡市は、京の都の西隣にあって、市域のかたちが西へ飛び立つ鳥の姿をした「吉兆のまち」なのです。
でも、その一方で
など、このまちは鬼や反逆者や謀反者だらけなのです!
だから、このまちのかたちの鳥も京に背を(尻を!)向けて飛んでいるのかも
では、なぜ、このまちは反逆の輩だらけ・・・?
その理由のひとつ
亀岡市は、京の西に隣り合う大きな盆地で、かつては丹波国と呼ばれていた地域ですが、丹波国と京の間には「西山山地」が衝立のように連なっており、行き来には峠を越えなければならないことが作用して、丹波国は「地方」=「地の方(かなた)」にある遠いところとして捉えられていたのです。
よって、「地方」の丹波国で不穏な動きがあったとしても、どうせ遠くのことだろうからと、時の朝廷や幕府は、丹波国の情報収集や警戒を怠っていたのです。
こうした気の緩みが、丹波国で進められていた源頼政による平家打倒の画策を見逃し、その反省を踏まえないまま漫然と丹波国を侮っていた結果、足利尊氏や明智光秀による京の市中への急襲を許したのです。
つまり、時の為政者が「地方」をなめていたツケが、自分たちの足元をひっくりかえされる結果として返ってきたのです。
ところで、これらの人たちは「悪」だったのでしょうか? そうではありません。これらの人たちは、当時の体制を軌道修正するための反対行動を起こしましたが、「悪」ではなかったはずです。
つまり、時の為政者が自分たちを正当化するために、都合の悪い勢力を「悪」にすり替えて人心を引導してきた「勝者が正義」の論理なのです。
たとえば、時の朝廷の支配を拒んで対抗した人たちが「鬼」とされたお話は日本のあちこちにありますが、首塚に祀られた丹波の鬼も同様だったのでしょう。
また、源頼政や明智光秀を「謀反人」としたのは、主君や国家に対する忠義心を定着するためであり、天皇を頂点とする国家体制を進める時の政府は、足利尊氏を「逆賊」とし、大本(教)を不敬の罪で弾圧したのです。
亀岡という鳥が、京に背を向けて飛んでいるのは、教科書だけでなく、ときには逆から見ることも大切ですよとの示唆なのです。
均衡ある中央と地方の発展、過去の反省に立った未来づくり、カタカナやイメージで人の心を惹くのではない、わかりやすい政策の説明など、これらすべては現代に共通することなのですから。